気まま添乗員の街角トラベル;幕末のあしあと、少しだけ散策。
河原町三条を南下して、
ファッションビルの地下1階2階を広く占める、
大き目の本屋さんに行く途中、
新しいホテルやレストランが休館、休業となってます。
コロナ緊急宣言が長引いて、
当たり前になってしまって、
平日でも結構人通りが多いですが、気になさらず。
本日は、現代と幕末あたりを散策しましょうか。
1.河原町二条、市役所前からスタート。
それより奥に行くと、いまは記念館の島津製作所、
日本銀行京都支店、
外資系になった旧フジタホテルのあたりに、
この近辺は幕末前夜は長州藩、薩摩藩の藩屋敷があったあたりです。
広げられておりますので、幕末当時は、
各藩の屋敷がひしめき合っていた界隈でしょう。
市役所の左側には、寺町通。
文字通り、お寺がたくさん並んでいて、
平安貴族はこの通りのもう一つ左側、
寺町御池から御所の手前まで、
屋台がたくさん並んでいましたが、
いまはもう中止でしょうかねえ。
小学校のころは、お小遣いをにぎって、
夜の屋台まわりにいそしみました。
たこ焼き、アメリカンドッグ、
かき氷、りんご飴。
クラスメイト達と偶然出会ったりして、
楽しかったなあ。
池田屋事件の場所は、
ここより河原町三条の東側になるのですが、
いたるところにこういう「本当の場所にはない」石碑、
増えました。
実際の場所は、お店やビルや、間口の問題で、
石碑やら置く余裕がないと思います。
何せ京都は、土地が狭いので有効利用せな、
商売になりません。
四条に近い河原町通りに石碑があったのですが、
今日歩いていても、
見つからなかった……。
私の老眼が進んでいるのですかね。(笑)
この「山本覚馬」って、
あの新島八重さん(NHKの八重の桜をご存じ?)のお兄様ですよね、
元会津藩の。
子供のころになかったよ~こんな石碑。
国際ボランティアをしていた頃も、
何もない道を一生懸命、
想像してもらおうと、
英語で外国人の観光客に説明していた。
10年ぐらい前のことです。
2.高瀬川、三条木屋町付近
幕末の志士たちが闊歩していたであろう木屋町には、
遊郭などはもう存在しておりません。
バブル時代は、
ディスコや高級ホステスのいるバーなどが、
ひしめいていましたが、
大学生たちがコンパに使う宴会系の居酒屋、
ブラック基調のアメリカンなレストラン、
観光客用のおしゃれなホテルに変わりました。
コロナ警戒で、どこも休業状態です。
表通りの河原町が賑やかなのに、
静かで、少し怖い裏通りです。
歩いている人、人相悪いのもいるから、
夜は特に、
家族連れは、ここは避けたほうがいいかも。
ここからほど近い鴨川には、
三条河原という、
昔から刑場の場所があって、
豊臣秀吉も自分の甥一族をさらした場所です。
新選組の近藤局長も、さらされていたのですが、
ある日首がなくなっていたそうで、
髪の毛しか入っていないのです。
(ご存じない方もいらっしゃったので)
新選組の、言わば「運動場」
「大砲練習のグラウンド」的な扱いですからね、
広いお寺は迷惑されていたと思いますよ(笑)
三条木屋町で暗殺されたといえば、
この人です。
ドラマ「仁」では、
子供時代に未来の東京に行って、
元の世界に帰ってきたという設定の後藤象二郎。
確かにこの人、
幕府への提言も未来発想過ぎて、
周囲の人たちが、ついていけなかったかも。
そして、尊皇派の志士たちに襲われたのです。
結局、誰が正しいとか、間違っているとか、
日本の在り方を議論しているうちはいいけれど、
命のやり取りはいけませんよね。
祇園の八坂神社、あの正門の階段でも、
新選組に切られた人の死体が転がっていた、
という記録があるのですよ。
こわい~
現代の政治家さんたちは、失敗しても、
切腹しなくてよいのです。
(逆に真剣さがないかなあ)
幕末の志士さんたち、
現代の私たちの状況を見て、
どう思うのでしょうね。
せっかく文武両道に優れていたのだから、
もっと、
頭やわらかく生きていけなかったのかなあと。
気まま添乗員は、
光縁寺に眠る山南敬助さんのことなど、
この時代の「しがらみ」かわいそうでなりません。
3.丸善の帰り道。
気まま添乗員は、本屋が好き。
今回も半日以上、しっかり立ち読み情報収集。
2冊買いました。
地下1階、2階、全部が本屋なので、
洋書、文具、とにかく豊富にあります。
ただこれだけ大きい本屋さんでも、
私のほしいタロットの外国版の本は、
置いておりませんでした。
アマゾンで探索ですね。
最新の英語関係、旅行関係、占い関係、
読みあさってまいりました。
今度開設するサイドブログの準備が目的です。
ひとりごとですよ。